いつまで続くのか、何を書くのか、それもまた流れのままに 頭の中にまとまらないものがあるから そんなのがふと出た時に書いていく
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仏道をならふといふは、自己をならふなり。
2008-06-22-Sun  CATEGORY: 名言
教育3chでやってた「こころの時代-宗教・人生-道元のことば~正法眼蔵随聞記にきく~ 我執を離れる」
期待して見てみたらとっても微妙。
司会者はすぐに分かちたがって小さく考えるし、解説してる坊さんはなんか表面的。
司会者にあわせてるだけなのかわからんけれども。
経典を解説してもらって読むの自体が何か失ってる感があるわけで、わからない語彙の意味ぐらいは知らないとどうしようもないが、個々の文章ではなくて全体の流れと大意を自分の感性で受け取らないともったいない気がする。
我執というのは知ろうとすること自体であって、自分の心、その感性で感じとるのは我執ではない。
知るというのは分かつこと、そして自分というのは自らを分かつこと。
自らの心に従えば人如何なんてありえないし、自分の利欲などというものもありえない。
あらゆる事象が自らと共に流れる。
捉え方というのはとても大切で、人はその心との接し方次第でその生き方、現実への感覚が大きく変わる。
自分にこだわればこだわるほど余計なことに煩わされる。
ただし、自分にこだわらない、というのは自分を無くすことではない。
この辺は禅で云う不立文字であってなんとも云い難い。
儒教で云えば中庸の心境だろうか。
仏教も儒教も、根本でいっていることは結局のところ同じ気はする。
最後に一番気になった坊さんの言葉。
ドライに捉えるのが悟りといって良いのではないでしょうか、などと言う。
これはちょっとひどい。
離れるということはドライになることじゃない。
ドライに捉えるのが悟りならそんな悟りは消え去ったほうがいい。
題名に惹かれたけど虚しい番組だった。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわすれるといふは、万法に証せらるるなり。

自己心に至る、これ天理にして合して一なり。
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3ch.ゲームとどうつきあう?
2008-06-15-Sun  CATEGORY: その他
ゲームとどうつきあう?という番組。
内容はいまいちだったけど、今の世の中では考えさせられる問題だ。
ゲームの魔力はとても恐ろしい。
僕自身がほんの一年前まではゲームをやり続けていた。
小学校の高学年にゲームボーイ、高校でパソコンゲーム、大学でネットゲーム。
就職してからもネットゲームをやり続けていた。
確かにゲームは面白い。
一度やりだすと7,8時間やってしまうぐらいだった。
ゲームは目標がわかりやすくて、たやすく成功体験を得られる。
いかにも自分自身が成長しているような疑似体験。
でも、実際には無駄な時間だから、ゲームをし終わるとなんかいいようのない喪失感に苛まれる。
すると快感が忘れられなくて、また、快楽を求めてゲームへと向かう。
自分自身を成長させることだって、本当はすごい面白いことなのに、人の成長はすぐにはわからない。
だから、わかりやすい方へと流される。
本当の成長というものを知らなかったのだからある意味仕方がないのだけれども、それでもやはりもったいない。
僕がゲームから離れられたのは、真実の意味で自分自身が成長できると思ったものに出会ったからだ。
その瞬間、いままでの自分が楽しいと感じていたものと、まったく違う感覚の楽しさがそこにはあった。
それからぱったりとゲームはしなくなった。
結局、ゲームに熱中している子供達も、本当に自分が求める楽しいものに出会ってないだけなのだ。
出会えば必ずやる気がなくなる。
でも、子供のうちに出会えるやつなんてほとんどいないから、親は心を鬼にして、その子供が本当に求めるものに出会ったときに、それを自分の力で掴み取れるだけの素養を形成させておいてあげる必要がある。
ゲームを完全に禁止にするのがいいのかどうかは、僕にはわからない。
だが、僕が感じている確かなことは、ゲームに費やした僕の時間は、なにも生み出していないということだ。
充実感も何もない、ただ、脳に楽しさを感じさせるだけの表面的な時間。
これっていうのは、ゲームだけに当てはまるものではない。
テレビや映画や、多くのスポーツにも当てはまる。
所詮はどれもゲームと同じで、特定の枠の中で蠢いているだけだ。
スポーツは違うという人はいるとは思うけど、体を動かすという利点があるだけで大した違いはない。
ただ、可能性があるとすれば、スポーツを通じて自分の体と対話し、自分の精神の動きと対話し、それを自分自身の成長に結びつけるまでいける人間はいるかもしれない。
そこまで追求できるのであれば、スポーツはゲームとは違うとも言えるかもしれない。
その点で武道というものは、精神というものを大切にしていた。
だから武道は人の成長と密接に繋がった。
今はなんでもかんでも形式ばるだけでその真髄は忘却されていることが多いから、武道でも難しいとは思うけれども、少なくとも過去には武道にそういう精神性は存在したのだと思う。
善良なる魂の主は実は忘却するものなのである、という。
しかし、今の日本は忘却すべきものを忘却しないで、忘れちゃいけないものを忘却している。
なんとも難しい世の中である。
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