いつまで続くのか、何を書くのか、それもまた流れのままに 頭の中にまとまらないものがあるから そんなのがふと出た時に書いていく
僕のネット帳
スポンサーサイト
-----------  CATEGORY: スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ページトップへ
御神酒の理由
2008-12-31-Wed  CATEGORY: その他
御神酒ってあるじゃないですか。
神棚にお供えして後で飲むやつ。
なんかその理由をネットで調べると、お供えした酒に神の霊力が宿るだとか啓示が聞けるだとか酒によって非日常の状態を得て神と交流するだとか、くだらん理由が書いてあるわけです。
そんな神頼み的な理由でお供えしているのだったら、何の意味もないし、お供えしないからといってそっぽ向くような神ならこっちから願い下げだって感じなんですけれども、これらのネット上にある御神酒をやる理由って果たして合っているんですかね。
そもそも神道って八百万神であって全てのものに神が宿るって話なはずなのに、己自身と対話するのに非日常にならねば対話できないって、どんだけ自分を省みれない奴等ばかりなのかと。
感謝の気持ちでお供えするならいいと思うんです。
今年ありがとう、来年もよろしくねと、人と会ったら挨拶するように。
これはごく自然な行動だし、とてもいい習慣だと思う。
相手を敬し、相手を通じて己を敬す。
自分と相手をちゃんと認めている、素晴らしい習慣です。
そうじゃなくて神頼みをするためにやるような気持ちでやるなら、そんなもんはいらない。
自分が真心を尽して生きていれば、御神酒なんて供えなくても神やご先祖様は決して蔑ろにするわけがない、そう思うのです。
なにはともあれ、お供えとかしなくても僕に素晴らしい一年が訪れたのは間違いない事実なわけで、来年も同じように素晴らしい一年が続くこともまず間違いないことでしょう。
自分が素晴らしいと思えば必ず素晴らしくなるだけの話ですから。
幸せは自分の心が決める。
真実ですね。
スポンサーサイト
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
チベット問題
2008-12-28-Sun  CATEGORY: その他
チベット問題ってあるじゃないですか。
中国共産党によって制圧されて、去勢されてレイプされて拷問されて殺されるという話。
それが今でも行われていると。
実際に見たわけではないけれども、写真とかあるし、安岡氏の著書にもインド代表から言葉として聞いたという記述もあるから真実味は高いのだろうと思う。
それに、つい最近ではオリンピック前に暴動鎮圧で武力を用いて批判もされていた。
でも、国を動かす立場にある人達は機嫌を損ねるのが嫌なのか本当には動かないんですよね。
とりあえず批判はしてみるけど、実際には動かない。
日本に至っては批判すらもできずに、中国の顔色ばかりを覗っている。
こういうのを聞くと、世の中というのになんとも言えない気持ちになるんですよね。
僕自身が何かやっているわけじゃないから批判できる話ではないんですけれども、国を任されている人達の見て見ぬふりがなんともやるせなくなる。
で、それを見ながら何もしない自分に関してもやるせなくなる。
もしも、この時代に孔子がいて孟子がいて王陽明がいて、明治維新の先駆者たちが居たら、何をしているのだろうかと思えてくる。
彼等なら、本当に何をしているのだろうか。
チベットとか中国に直接出向いて何か活動するのでは、共産党に即刻殺されることになるんだろうけれども、ある程度の力を持った国において活動を展開するのなら、一時的なものには終らずにできるかもしれないとも思う。
ただ、影響力を持つだけの活動をするには、人を惹きつけるだけの人間でなければならないんだけれども、そういう人間ってやはりまずは行動するんですよね。
しかも、妄動ではなくて、信念を存して行動するから決して自分と離れたものにはならない。
いつしか僕はそういう人間になれるのかなぁとは思うのだけれども、そう思ってるようでは駄目なのだろうとも思えてしまうわけで、久々に憂鬱な気分になった。
十年後、二十年後、自分が壮年になった時に、ただ学問しているだけで何もやらない人間であったなら、僕のいまやっていることはどこか間違っているのかもしれないなと思う。
良心の欲するままにやっているつもりではいるけれども、本当はまだ、良心に反りきれていないのかもしれない。
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
禅と公案と陽朱哲学と。
2008-12-13-Sat  CATEGORY: その他
禅に公案ってあるじゃないですか。
一見するとわけのわからない問答のやつ。
禅で座禅するのは心を一にし、無為にして有るが如くに己を修めるためだと思っているのですけれども、公案は思索させることになるのだから無心から離れる訳で、禅で心を練っているのに公案によって心を放溺させては仕方ないではないかと思えてしまう訳です。
無だの虚だの空だのといったものは理解するものではなくて感じとるものだから、公案で考え抜かせて堅牢に構築された固定観念を崩して、その果てにふと生じるその者自身の思考を得ようという意なのかもしれないですけど、これは禅本来の姿だとは思えない。
誰の故事だったかは忘れたが、こんな故事がある。
弟子が修行して深夜になって部屋をでると外は闇であった。
弟子が明かりを所望して、師は徐に手渡す。
手渡した途端に師は明かりを吹き消す。
火が消えて周りは漆黒の闇、静寂のみ。
ここに至って弟子は感ずるところを得る。
人を導くに決して言葉や思索は必要ないはずで、一番大事なのは感じさせることであって、人は感じさせる以外に悟らせるには至らない。
教外別伝の本領はここにあるはずなのに公案を用いて行なうのでは、朱子学において理の追求ばかりしていたらただ知識を得ただけだったというのと同じことになる。
中にはハッとする者がいるのかもしれないが、そういうものは公案せずとも深く参じていけば自ずと悟るに至るのだろうと思う。
公案など用いずに、直下に自分の心に問うてその心に反るのが一番だと思うのですけど、果たしてどうなのだろうか。
このように書いていたら、ふと公案の真意は公案を与えて一心にそこに向かわせ、他の雑念を消して座禅させるというところにあるのかもしれないと思ってみた。
無心で座禅し続けられる人に公案を与える必要もないだろうから、あり得なくはないかと。
何はともあれ、ちゃんと心を存してやらないと逆効果になり得るのは確かだと思う。
結局のところ、陽明学や朱子学の格物致知して万物に通ずる理を得るのと禅の公案は本質として同じものなのであろう。
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
程明道と神道
2008-12-06-Sat  CATEGORY: その他
宋代の思想家である程明道について調べていたのですけれども、彼の思想はとても感覚的で単純なんだけど難しい。
何でも頭で考えようとする人には何もわからんだろうなという感じ。
まあ、感じろそして応じろ、という話なんですけども、その説話の中に上天というものが登場する。
万物には絶対的な存在として上天があり、その消長変化を司る。
ここでふと神道のことを思ったのです。
神道に八百万神があるけれども、程明道のいう上天というのはこれに近いかなと。
あらゆる事物に宿りて主宰し、創造発展を遂げさせる。
こういうのなんか面白いですね。
時代も場所も系統も異なる人間がそれぞれ自分なりに思想を高めていくわけですけど、辿りつく先は一である。
こういうのを見つけるとうれしくなってしまいますね。
久々に心が躍りました。
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
<< 2008/12 >>
S M T W T F S
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -


余白 Copyright © 2005 僕のネット帳. all rights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。