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裁判員制度に宗教家が悩む
2009-01-11-Sun  CATEGORY: その他
裁判員制度に宗教界が悩むという記事がhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090111-00000008-yom-sociにあった。
不思議な話である。
そんなので悩む宗教家がいたら、そんなのは本物の宗教家じゃない。
本当に宗教というものに自己を尽して生きているなら、裁判でその是非を判断することを悪とはしない。
なんか宗教というものは全てを救うみたいなことを述べる輩がいるけれども、宗教の眼目はそんなくだらないことじゃない。
私利私欲によって罪を犯した、それなのにその人間の罪を裁くのは非である、そんな宗教ならやめたほうがいい。
その程度であるならば、それは偽善だ。
本当に人を思っているならば、何者であれ裁くのは良くないなどという考えには為り得ない。
罪は罪としてある。
別にその人間を憎むのではない、罪は罪としてあるからそれ相応の罰を受けるのは当たり前のことなのだ。
罪を恨んで人を恨まず、これは真だ。
真だけれども、だからといって罪を罪として罰しないというわけではない。
その人間自体を恨まないだけであって、罪自体は既にその人間とある。
だからその人間が罰を受けるのは仕方のないことである。
罰を罰として受け入れさせた上で、その罪人を救ってやればいい。
罰を当たり前のことだとして既に受け入れている罪人がいるならば、そこには人情を巡らしてやればいい。
罪を犯した部分に同情の余地があるならば、大度をもって兼ね入れてやればいい。
ちゃんと宗教の真に赴いている人なら、法に捉われずにそれがやれるはずなのだ。
本当の宗教家ならば世に惑わされずに是を是とし、非を非とし、善悪兼ね入れて事を決することができるはずだ。
そんな人間が裁判を掌ったほうが罪人にとってもいいに決まっているではないか。
諸葛孔明は厳正だった。
如何に軽い罪であっても必ず罰し、逆に重い罪であってもそこに人情を巡らすに足る部分があれば軽くしてやった。
彼自身が公明正大であったから如何に厳しくとも人々は怨嗟の声を挙げなかった。
罪を問われて放逐された李厳などは、孔明の死を伝え聞いた時に「彼が死んでは我は再び官に就くことはなかろう」と歎息した。
私心なくして誠ならば、決して裁くことは非などではない。
本当に罪を罪として罰し、善を善として称え、甚だしきを去るのならば、如何に罰しようとも是なのだ。
そしてそれを出来るのは、微塵も私心を存せず、同時に自分なりの確固とした信念を有している者だけなのである。
本当の宗教家ならそれがあるはずであって、そこから逃げているような者は真実の宗教家などではないのだと思う。
追記。
イエス・キリストは「裁いてはならない」と云ったという。
なにを「裁いてはならない」のだろうか。
果たしてそんな単純な意味で「裁いてはならない」などと云ったのであろうか。
今回の裁判員制度に悩む宗教家のような考えで言うような人物であったなら、イエス・キリストという人物がいまでも敬慕されるに至るだろうか。
記事の中にイエス・キリストが「人を裁いてはならない」と云ったとあったので、そんな風におもったのだけれども、キリスト教に関しては全く知らないので少し調べてみた。
http://www009.upp.so-net.ne.jp/JESUS/yashinai/matai7.1-2.htm
この中で三人殺して死刑判決を受けた人の話が出てくる。
彼は獄中でクリスチャンになったという。
罪を悔いたという。
でも、死刑はそのままだ。
これを世の宗教家たちは非とするのだろうか?
自分の罪を悔いるに至った彼自身は、死刑という判決を決して非だとはしなかったことだろう。
彼は死刑によって目覚め、死刑によって救われた。
彼は死刑になっていなければ、真実の自分を知ることなくその生を終えていたかもしれないのである。
罰せられて逆に救われた。
罪を得た人間を短絡的に見逃すことほど、その人間を蔑ろにする行為はないことを自覚しなければならない。
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カーとバーのエジプト神話
2009-01-02-Fri  CATEGORY: その他
久々にテレビ見ていたんですよ。
親父がエジプトのピラミッドなんたらっていう吉村教授が自分の説を展開していく番組見てたんで一緒に。
そしたらカーとバーってのが出てきたんです。
カーは魄でバーは魂みたいな感じ。
バーが天へと昇り、カーは地上にとどまり変幻自在。
似てるんですね、東洋思想の鬼神に。
神は天へと昇り、鬼は地へと還る。
http://www.kokin.rr-livelife.net/goi/goi_ki/goi_ki_15.htmlにある礼記の一節を読むと似ていることがわかる。
更に二元性の話もまた陰陽に同じわけで、いつ如何なる時代場所においても行き着く先は同じなんだなとしみじみ思って妙に納得していました。
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