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辞書を辞書としてネットをネットとして
2008-11-24-Mon  CATEGORY: その他
調べ物をする場合、やはりネットで調べることが多いのですが、個々に特徴あったりして完全に信用はし切れない。
特にwikipediaなんて誰でも編集できるから、このサイトの管理人なら信頼性高そうとかもない。
そういう訳で、ネットで調べ、更に辞書と照らし合わせてやるわけなのですけれども、思想的な言葉だと辞書よりネットで持論を展開している人の方が深い場合が多いんですよね。
同じ言葉でも人によってとらえ方の深さが全然違うなと。
基本的に辞書のとらえ方は表面的過ぎるので、古典を読む際に辞書の言義のまま受け取って読むと大体足らない、ひどい時には誤る。
例えば儒教で「仁」というのは有名だけれども、辞書をみると単に「慈しむ心」「いたわる心」としか書いていない。
広辞苑なんかだと「忠と恕の両面をもつ」という文言を加えているので、まだましなんですけれども、では「忠」は?、と調べると「いつわりのない心」としかない。
これでは本当の「仁」が描かれていない。
儒教の経典とされる大学に「ただ仁人のみよく人を愛し、よく人を悪む」とあるのは何なのかと。
このような真義には触れずに表面的な部分だけを載せて人々に知らしめる。
多くの人はこれを見て本当の意味を知らないままに用いる。
やがて世にはその意味だけがまかり通る。
これではまさに「絶学」となる。
というわけで、手軽に辞書だのネットだのを使っても少しも探求はできない。
どちらも便利なものではあるけれども、扱う人にそれだけの自覚がなければいけないわけで、自覚がなければ、単に情報に押しつぶされるだけであって、ともすれば自分を見失うことになるのです。
テレビや新聞を含めたこれらの媒体は、手軽なようでいて最も扱いの難しいものといえるでしょう。
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