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禅と公案と陽朱哲学と。
2008-12-13-Sat  CATEGORY: その他
禅に公案ってあるじゃないですか。
一見するとわけのわからない問答のやつ。
禅で座禅するのは心を一にし、無為にして有るが如くに己を修めるためだと思っているのですけれども、公案は思索させることになるのだから無心から離れる訳で、禅で心を練っているのに公案によって心を放溺させては仕方ないではないかと思えてしまう訳です。
無だの虚だの空だのといったものは理解するものではなくて感じとるものだから、公案で考え抜かせて堅牢に構築された固定観念を崩して、その果てにふと生じるその者自身の思考を得ようという意なのかもしれないですけど、これは禅本来の姿だとは思えない。
誰の故事だったかは忘れたが、こんな故事がある。
弟子が修行して深夜になって部屋をでると外は闇であった。
弟子が明かりを所望して、師は徐に手渡す。
手渡した途端に師は明かりを吹き消す。
火が消えて周りは漆黒の闇、静寂のみ。
ここに至って弟子は感ずるところを得る。
人を導くに決して言葉や思索は必要ないはずで、一番大事なのは感じさせることであって、人は感じさせる以外に悟らせるには至らない。
教外別伝の本領はここにあるはずなのに公案を用いて行なうのでは、朱子学において理の追求ばかりしていたらただ知識を得ただけだったというのと同じことになる。
中にはハッとする者がいるのかもしれないが、そういうものは公案せずとも深く参じていけば自ずと悟るに至るのだろうと思う。
公案など用いずに、直下に自分の心に問うてその心に反るのが一番だと思うのですけど、果たしてどうなのだろうか。
このように書いていたら、ふと公案の真意は公案を与えて一心にそこに向かわせ、他の雑念を消して座禅させるというところにあるのかもしれないと思ってみた。
無心で座禅し続けられる人に公案を与える必要もないだろうから、あり得なくはないかと。
何はともあれ、ちゃんと心を存してやらないと逆効果になり得るのは確かだと思う。
結局のところ、陽明学や朱子学の格物致知して万物に通ずる理を得るのと禅の公案は本質として同じものなのであろう。
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